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    スリランカの古代都市ポロンナルワはなぜジャングルに埋もれたのか?王都の繁栄と衰退

    スリランカ中北部に位置するポロンナルワは、11世紀から13世紀にかけて王国の首都として栄えた古代都市です。広大な敷地には王宮跡や仏教寺院、巨大な石造りの仏像などが点在し、1982年には世界遺産に登録されました。現在はスリランカの文化三角地帯を代表する観光地として、シーギリヤロックやダンブッラ石窟寺院とともに多くの旅行者が訪れています。

    かつて王宮や寺院が立ち並んでいたポロンナルワがジャングルに覆われたのは、13世紀に王国の政治的な中心地が移り、住民が減少したことが主な理由です。さらに、農業に欠かせない貯水池や水路の管理が衰え、周辺の集落も次第に縮小していきました。現在の遺跡には、長い年月を経て残された巨大なレンガ壁や石造りの仏像があり、王国が繁栄していた時代の様子を伝えています。

    目次

    ポロンナルワが王都になった理由

    スリランカでは、紀元前4世紀ごろからアヌラーダプラが王国の中心地として発展し、約1400年にわたって政治や仏教の拠点となっていました。しかし、10世紀末になると南インドのチョーラ朝による侵攻が本格化し、993年にはアヌラーダプラが攻撃を受けます。その後、チョーラ朝はスリランカ北部の支配を拡大し、ポロンナルワを行政の中心地として利用するようになりました。この地域には以前から集落や仏教寺院が存在していましたが、チョーラ朝の支配下ではヒンドゥー教の寺院も建設され、南インドの文化が持ち込まれました。遺跡の一角に残る石造りのシヴァ神殿は、この時代の建築を伝える貴重な遺構です。

    1070年にはシンハラ人のヴィジャヤバーフ1世がチョーラ朝の勢力を退け、スリランカの王権を回復しました。王はすでに行政機能が整っていたポロンナルワを首都に定め、仏教寺院の再建や王宮の整備を進めます。こうしてアヌラーダプラに代わる第二の王都が誕生しました。ポロンナルワは周囲を森林に囲まれた内陸部に位置し、古くから貯水池を利用した農業が営まれていた地域でもあります。王宮や寺院の周辺には官僚や商人、職人などが集まり、12世紀にはスリランカを代表する大都市に成長しました。

    最も繁栄した12世紀

    ポロンナルワの最盛期は、1153年から1186年まで統治したパラークラマバーフ1世の時代です。王は国内の政治的な対立を収め、王国の統一を進めるとともに、首都の大規模な整備に取り組みました。城壁に囲まれた王宮地区には宮殿や庭園、浴場などが建てられ、周辺には仏教寺院や僧院が広がりました。王宮は7階建てだったと伝えられており、現在も高さのあるレンガ壁の一部が残っています。上層階には木材が使用されていたと考えられ、建築物の大部分は失われましたが、壁面に残る穴や柱を支えた跡から、当時の宮殿がどのような構造だったのかを知る手がかりが得られます。王宮の近くには王族が使用したとされる浴場も設けられ、石段や排水路などが残されています。

    パラークラマバーフ1世の治世で特に注目されるのが、パラークラマ・サムドラと呼ばれる巨大な貯水池の整備です。スリランカ中北部は年間を通じて気温が高く、雨季と乾季の降水量に大きな差があります。古代から農業用水の確保が重要だったため、王は既存の貯水池や水路を改修し、広い農地に水を供給する設備を整えました。パラークラマ・サムドラは「パラークラマの海」を意味し、湖のような水面が広がっています。王は雨水を無駄にせず利用することを重視したと伝えられており、大規模な灌漑事業によって米の生産量が増え、王国の財政も豊かになりました。現在も貯水池の一部は利用されており、古代スリランカの土木技術を伝える施設として知られています。


    王都はなぜ衰退したのか

    12世紀末になると、ポロンナルワの王権は次第に不安定になりました。パラークラマバーフ1世の死後も王位の継承は続きましたが、短期間で国王が交代する時期があり、国内では政治的な対立が繰り返されます。さらに1215年には、インド方面から来たとされるマーガが軍勢を率いて侵攻し、首都を占領しました。この侵攻は王国に大きな打撃を与え、王族や仏教僧侶の多くがスリランカ南西部などに移住したと伝えられています。その後、シンハラ王朝は別の地域に首都を移し、ポロンナルワの王宮は政治の中心として使われなくなりました。長く繁栄を支えてきた商業活動も縮小し、王宮や寺院の維持に携わる人々が減少していきます。

    王都の衰退には、周辺の農業環境も関係していました。ポロンナルワでは貯水池に蓄えた水を水路で農地に供給していましたが、王国の統治力が弱まると、堤防の補修や水路の管理も十分に行われなくなりました。土砂の堆積や設備の損傷によって農地への給水が難しくなり、住民の減少にも影響したと考えられています。人々が暮らさなくなった場所では樹木や草が生い茂り、王宮や寺院の周辺にも森林が広がりました。レンガ造りの壁は雨風によって崩れ、木材を使用していた部分は失われましたが、石造りの仏像や寺院の基礎などは地表や土の下に残されました。13世紀以降、政治と経済の中心が別の地域に移ったことで、かつての首都は数百年の間にジャングルに覆われていったと考えられています。


    ジャングルに残された遺跡

    ポロンナルワの遺跡が本格的に調査されるようになったのは、イギリス統治時代の19世紀です。森林に覆われた古い王宮や寺院について記録が残され、調査員たちは樹木や土砂を取り除きながら建築物の位置や構造を調べました。1890年にはセイロンの考古学調査を専門に行う組織が設立され、その後も発掘や保存修復が進められます。現在は広い敷地が整備され、王宮跡や仏教寺院を巡ることができますが、周辺には樹木が多く、遺跡の間に森林が広がる場所もあります。かつて首都だった地域の規模を知るには、まず王宮跡とその周辺を訪れるとよいでしょう。王宮のレンガ壁は一部が高さ約9mに達し、建物の基礎や階段の跡も見られます。また、王宮地区の近くには石造りの宗教建築が集まるクワドラングルと呼ばれる区域があり、円形の仏教建築ヴァタダーゲが残されています。ヴァタダーゲは円形の基壇の上に仏像を配置した建造物で、石段の入口には動物や植物を彫刻した装飾が施されています。特に半円形の石板に模様を刻んだ月輪石は、スリランカの古代寺院に見られる伝統的な装飾です。

    ポロンナルワを代表する遺跡として知られるのが、巨大な花崗岩に4体の仏像を彫刻したガル・ヴィハーラです。12世紀のパラークラマバーフ1世の時代に造られたとされ、座像2体、立像1体、横たわる涅槃像1体が並んでいます。涅槃像は全長約14mあり、頭を支える枕や足の裏の装飾まで細かく彫られています。仏像はそれぞれ同じ岩から削り出されており、表面には当時の石工が残した彫刻の技術を見ることができます。また、ガル・ヴィハーラから南にあるランカティラカ仏堂には、高さ約17mのレンガ壁に囲まれた仏像があり、かつては屋根を備えた大規模な寺院だったと考えられています。仏堂の内部には高さ約13mの仏像が安置されていましたが、現在は頭部などが失われています。ポロンナルワには石やレンガで造られた宗教建築が数多くあり、同じ12世紀の建造物でも、仏像の彫刻や寺院の構造に違いが見られます。


    ポロンナルワ遺跡の観光

    ポロンナルワはスリランカの文化三角地帯に位置しており、シーギリヤやハバラナに滞在して訪れる行程が一般的です。シーギリヤからは専用車で約1時間~1時間30分、ハバラナからは約1時間~1時間15分が目安となります。主要な遺跡は南北に数kmにわたって分布しているため、見学にはトゥクトゥクや専用車、自転車などが利用されています。王宮跡からガル・ヴィハーラまでは距離があり、各遺跡の内部でも徒歩で移動するため、主要な場所を巡るには3~4時間程度が必要です。気温が上がる前の午前中から観光を始め、博物館も見学する場合は半日ほど予定しておくとよいでしょう。遺跡の入場券は考古学博物館の近くで購入でき、外国人旅行者の入場料は2026年11月時点で大人30米ドル、6~12歳の子ども15米ドルです。料金はスリランカルピーで支払い、適用される換算レートによって現地通貨の金額が変わります。入場券には考古学博物館の見学も含まれており、チケット窓口は午前7時~午後5時まで営業しています。

    遺跡の観光では、最初に王宮跡を訪れ、その後クワドラングルの仏教建築を見学し、北側のガル・ヴィハーラを巡る行程がよいでしょう。各遺跡では建築物の周囲を徒歩で見学でき、石段の装飾や仏像の彫刻を近くから見ることができます。仏教寺院の区域では靴と帽子を脱ぐ必要があり、仏像に背を向けて記念撮影をすることは認められていません。また、日中は地面や石畳の温度が高くなるため、靴を脱いで歩く場所では靴下を用意しておくとよいでしょう。ポロンナルワはシーギリヤロックのように大きな岩山を登る観光地ではありませんが、王宮や寺院が広い範囲に点在しているため、見学時間に余裕を持たせたいところです。スリランカの古代王国に関心がある旅行者なら、シーギリヤやダンブッラと組み合わせて訪れることで、宮殿や仏教寺院が建設された時代の違いも知ることができるでしょう。



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