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    スリランカのポルトガル・オランダ・イギリス植民地時代が、現代の旅行に残したもの

    スリランカを旅行していると、仏教寺院や古代遺跡とはまったく雰囲気の異なる街に出会います。海に面したゴールにはヨーロッパの城塞都市が残り、コロンボには植民地時代の建築が点在しています。標高約1,800mのヌワラエリヤでは英国を思わせる建物やゴルフ場があり、周囲の山々には紅茶畑が広がっています。キャンディから高原地帯を走る鉄道も、現在ではスリランカ観光を代表する存在になりました。

    こうした風景は偶然生まれたものではありません。スリランカでは16世紀から20世紀半ばまで、ポルトガル、オランダ、イギリスという3つのヨーロッパ勢力が相次いで支配地域を広げました。1505年にポルトガル人が来航し、17世紀にはオランダが沿岸部を支配、1796年にはイギリスがオランダ領を占領します。そして1815年に内陸のキャンディ王国もイギリスの統治下となり、1948年の独立まで続きました。約440年に及ぶこの時代を知っておくと、ゴール、コロンボ、キャンディ、ヌワラエリヤといった観光地が、それぞれ違った表情を持っている理由が見えてきます。


    目次

    ポルトガルが残した海の記憶

    ポルトガル人がスリランカに到来したのは1505年とされています。当時のヨーロッパ諸国が求めていたもののひとつが、セイロン産のシナモンでした。インド洋交易の重要地点にあったスリランカは、香辛料を求めてアジアへ進出していたポルトガルにとって見過ごせない島だったのです。その後、ポルトガルはコロンボなどの沿岸部に拠点を築き、16世紀末にはゴールにも要塞を建設しました。現在のゴール旧市街を囲む巨大な城壁は後のオランダ時代に大幅に整備されたものですが、この場所をヨーロッパ勢力の軍事・交易拠点として利用した歴史はポルトガル時代までさかのぼります。

    ポルトガル時代の痕跡は、要塞だけに限られません。カトリックが沿岸地域に広がり、現在でも西海岸を中心に教会が多く見られます。また、スリランカにはポルトガル語に由来するとされる言葉が残り、名字にもポルトガル統治時代との関係を感じさせるものがあります。旅行中に目にする教会や人々の名前まで視野を広げると、16世紀に始まったヨーロッパとの接触が、単に過去の出来事として終わっていないことが分かるでしょう。ポルトガルが支配したのは主として沿岸部だったため、古くからの王国文化が色濃く残る内陸部との違いを見るのも、スリランカ旅行のおもしろいところです。


    オランダが築いたゴール

    1640年、オランダはポルトガルからゴールを奪い、17世紀後半から18世紀にかけて現在につながる城塞都市を築きました。ゴール旧市街を歩いたときに目にする厚い城壁、稜堡、規則的に延びる道路、教会、かつての行政施設などは、この時代の都市計画と深く関係しています。城壁は約3kmにわたり、海に突き出した半島を囲んでいます。現在のゴールがスリランカを代表する歴史都市になっている背景には、オランダ統治時代に造られた都市の骨格がそのまま残されたことがあります。

    興味深いのは、ゴール要塞が保存された遺跡だけではないことです。城壁の内側では現在も人々が暮らし、歴史的な建物がホテルやレストラン、店舗などとして使われています。1755年に建てられたオランダ改革派教会をはじめ、オランダ時代を伝える建築が街の中に残る一方、その後のイギリス統治時代に加えられた建物も混在しています。さらにオランダ統治は、現在のスリランカの法制度にも痕跡を残しました。ローマン・ダッチ法はイギリス統治が始まった後も全面的に廃止されず、現在の法体系にも受け継がれています。旅行者の目に直接見える城壁から、社会制度の奥に残ったものまで、オランダの影響は思っている以上に広いのです。


    イギリスが変えた島の交通

    1796年にイギリスがオランダの支配地域を占領し、1815年には最後まで独立を保っていたキャンディ王国もイギリスの統治下となりました。ここからスリランカ全土がひとつの植民地行政の下に置かれる時代が始まります。イギリス統治が現在の旅行者に残したものとして、特に存在感があるのが鉄道です。スリランカで鉄道が開業したのは1864年。当初の大きな目的は、高原地帯で生産されたコーヒーをコロンボ港まで運ぶことでした。その後、1870年代にコーヒー農園が病害によって大きな影響を受けると、主要作物は紅茶へ移り、1880年代から紅茶産業の拡大に伴って高原地帯の鉄道網も発達しました。

    現在、キャンディからヌワラエリヤ方面、さらにエッラやバドゥッラ方面へ向かう高原鉄道は、スリランカ旅行でも人気の高い鉄道区間です。山腹を縫うように線路が延び、紅茶畑や山々の景色が車窓に続きます。しかし、この路線が造られた背景には、紅茶を高原の農園からコロンボ港へ運び、海外へ輸出するという植民地経済がありました。急勾配やカーブの多い線路にも、当時の土木技術と建設事情が反映されています。現在の旅行者が楽しんでいる高原鉄道と紅茶畑は別々の観光資源ではなく、19世紀のプランテーション経済から生まれた、ひと続きの景観なのです。


    紅茶とヌワラエリヤ

    イギリス統治の面影が特に濃い場所がヌワラエリヤです。標高約1,800mの高原に位置し、低地のコロンボとは気候が大きく異なります。街には英国風の建物が残り、ゴルフ場や競馬場なども造られました。赤レンガの郵便局をはじめとする古い建築と涼しい高原の空気、周囲を覆う紅茶畑が重なる景色から、この街が「リトル・イングランド」と呼ばれてきた理由も分かります。スリランカの中に英国を思わせる高原都市が存在すること自体が、植民地時代の歴史を現在に伝えているといえるでしょう。

    そしてヌワラエリヤ周辺を語るうえで欠かせないのがセイロンティーです。スリランカではイギリス統治時代にコーヒー、紅茶、ゴムなどのプランテーションが発達し、紅茶はやがて国を代表する産業のひとつになりました。高原地帯を移動すると、斜面を覆う茶畑、紅茶工場、鉄道、植民地時代の建築が同じ地域に集まっていることに気づきます。紅茶工場を見学して製造工程だけを見るより、なぜこの標高に茶畑が広がり、なぜここに鉄道が敷かれたのかまで知っておくと、ヌワラエリヤからキャンディにかけての景色が違って見えてくると思います。


    現代の旅行に残る3つの時代

    スリランカの植民地時代を知るなら、ポルトガル、オランダ、イギリスを同じものとして見るのではなく、それぞれが残したものの違いに注目すると分かりやすくなります。ポルトガル時代には沿岸部を舞台にヨーロッパとの接触が本格化し、カトリックをはじめとする文化的な影響が残りました。オランダ時代にはゴールに代表される城塞都市や建築が整えられ、ローマン・ダッチ法は現在にも受け継がれています。イギリス時代になると島全体の統治が進み、鉄道、プランテーション、コロンボの都市整備、ヌワラエリヤの高原都市など、現在の旅行で目にする景観の多くが形成されました。

    その一方で、スリランカにはヨーロッパ勢力が来る千年以上前から続く歴史があります。アヌラーダプラやポロンナルワには古代王朝の遺跡が残り、シーギリヤには5世紀の王宮跡、キャンディにはシンハラ王朝最後の都としての文化があります。そこに16世紀以降のポルトガル、オランダ、イギリスの時代が重なっているため、同じ国を旅行しているのに、地域によって街並みや宗教施設、建築、食文化まで表情が変わります。シーギリヤ、キャンディ、ヌワラエリヤ、ゴール、コロンボを周遊する行程は、観光地を順番に訪ねるだけではありません。古代王朝の時代から植民地時代、1948年の独立を経た現在まで、スリランカの異なる時代を場所ごとに見る行程でもあります。ゴールの城壁、高原を走る列車、ヌワラエリヤの紅茶畑、コロンボの植民地建築を目にしたとき、その背景にある時代を少し知っているだけで、スリランカ旅行で見えてくるものはかなり増えるのではないでしょうか。



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